1995年1月17日(火曜日)朝5時46分 阪神淡路大震災発生



約10万棟の家が全壊し、6000人以上の尊い命が奪われ、
数えきれない家族の笑顔と幸せが一瞬にして消えました。

当時私は神戸市灘区の六甲道駅近くにあった実家でくらしており、
あの忘れようとしても忘れられない悪夢の揺れをまともに体験。

「神様助けて!!!」

と無意識に叫んだことを覚えています。
安全な場所へ移動したくても身体の自由が全くきかず、
書物や置物が本棚と共に私の上に落ちて一瞬にして埋まり、
テレビや冷蔵庫なども壁から壁へ飛んでいくのを目の当たりに。

揺れが少しおさまったところで外に出ようと、
真っ暗な中を家財や割れたガラスの上を這いつくばって玄関へ。

余震が続く中かろうじてドアノブに手が届くもドアが開かない。

ドアを何度も蹴りつけ、
やっとの思いで人が通れる隙間を確保し外へ。

外は真っ暗でとてつもない寒さ。

それでも余震が続き家に入ることはできないので、
静まり返っていたその場に立ちすくむしかなかったのですが、
夜明けとともに周辺が見え始めると愕然としました。

傾くマンション

崩壊した家々

あちこちで上がる黒煙


空爆にでもあったかのような惨状が目に飛び込んできました。

「夢であって欲しい・・・・・・」

そう願わざるを得ませんでした。

「誰か〜!助けて〜!」

と叫び声が上がったことで母親がいないことに気付き、声を掛けながら家の中へ。

見つけ出した母の上には整理タンスが倒れていたのですが、
コタツに入って寝ていたことが幸いし、直撃を免れ無事。

着の身着のまま外に飛び出していたので、服を探しましたが
足の踏み場もなく見つけることができない。

何度も余震が続く中、とにかく二次災害に巻き込まれないようにと外に出て、
広い道路にうずくまりながら体を温めるしかありませんでした。

当時はスマホなどなく、
簡単に情報を知ることができない時代。

公衆電話には長い行列ができていて、
親戚や友人知人に連絡を取るのも困難な状況。

父はすでに仕事に出た後で消息がわからず心配でしたが、
勤務先に向かう走行中に車が上下に飛び上がり、目の前に阪神高速道が落ちてきたというものの



これも奇跡的に無事を確認。

路上の寒さに耐えきれず、焚火をしようと燃やすものを探しに周辺を歩く、
一階部分が完全につぶれた家が連なっていました。



そんな家の前で一人の女性が、「旦那と子どもが一階に寝てたんです!助けてください!」
と助けを求めてきたので、がれきの隙間をのぞこうとしましたが、地中深くから、

「ゴーーーッ!」

と、この世の終わりと思わせる地鳴りが響き、
同時に大きな余震が繰り返し起こりました。

埋まっている人を助けるどころか、近付くことすらできません。
周辺の多くの家屋が同じ状況で、ただただ公的な救援を待つしかない。

「何もできずごめんなさい・・・・・・」

そう心の底でつぶやきながら、その場を立ち去るしかありませんでした。

4階、5階部分が階ごと無くなっているマンション。



傾いたマンションの上階の窓から助けを求める人々。



それらを目にしても、何もできることはなく無力な自分。

JRの線路の状況を確認しにいってみると、川にかかる橋が落ちて無くなり、
通勤に利用していた六甲道駅は2階部分が地面に。



状況を知れば知るほど放心状態。

この様な状況の中でも両親の状態が心配だったので、
ドラム缶と木材やカーテン生地などを拾い集め、家の前に戻り焚火を始めました。




近所の人たちも一緒になって火を囲み、とにかく暖を取って体を温める。
食事は皆で食べ物を持ち寄り、ドラム缶の上に置いた網で焼いて食べる。
極寒の路上でも何とか飲食は確保しながら、とにかく耐えるしかない状況。

時間は経てども状況は一向に好転せず、寝られる場所も無かったので、
無事だった車で交代で仮眠。

ただ、ガソリンが無くエンジンがかけられず、
冷え切った車内は老人や赤ちゃんには過酷な環境でした。

地震から2日目に入ると、近くの小中学校で飲食物の支給が始まったので、
出向いて配給に並びました。





けれども数が少なく、自分まで回ってこない。
訪れた母校の中学校には、けが人や亡くなった方が運びこまれ、
泣き叫ぶ声や身内を探している人々など、その時の情景が今でも心に焼き付いています。

極寒の中で3日目。

26歳で若かった私でも心身共に衰弱。

そんな時に毛布や衣類の支給品が手に入り、救援物資を送ってくださった方々や、
運んでくださった方々を、命の恩人と思わずにはいられませんでした。

その後4日、5日目となると、この先どうして行こうかなどの話も出始め、
行動に移せる方からぽつぽつと焚火の輪から抜け、神戸から出て行かれました。
焚火を囲んで苦境を共に過ごした人々が離れていく際には、

「頑張ってください」

と自然と声をかけ合っていました。
私も両親と一緒に暮らせる住宅を確保するために、大阪に向かったのは地震から7日目のこと。

大阪に着くと普通にお店も開いていたので、私たちは買い物に入ったのですが、
みすぼらしい身なりで体も臭く、とても負い目を感じていました。

一瞬にして人生が変わってしまった・・・・・・

そう実感しました。
幸いにも私たち家族に亡くなった人はいなかったのですが、
友人や知人は多くの方々がお亡くなりに。

あれから25年以上が経過しましたが、決して癒える事はなく、
今でも昨日のことのように思い出されます。